遊び人の行灯戦歴

行灯戦歴

〜いろんなことがありました……〜



  ■一年時
  実はこのページで登場する職人たちは全員同じクラスでした。

今考えるとありえないことですが、三年時は僕らの内の4人で大賞、金賞クラスの責任者を独占していたし、賞に入らなかったが(奴は文系なので)仕事人は、学年一の職人という噂もたつほどであった。

  とにかく一年のときは楽しかった。俺は、主にテント作り、電飾、紙貼りをやって、針金作業には一切、手を出さなかったのだが、本当に面白かった。テントを作っては、先輩方に『一年の作るテントじゃねぇ』と言わしめるも、雨が降ると大量に水がたまって、悪戦苦闘したのも、今となっては良き思い出。その中でも電飾は特に面白かった。俺と芋兄の二人でほとんどの作業をやったのだが、何も知らない一年がバッテリーを集めだすころには北高近くのガソリンスタンドにはもう残っているはずもなく、遠くまで探しに行ったもんよ。けど、そういうのに限って、死んでたりするわけで、硫酸まみれになって、すごく咳き込む部屋で充電を行いながら、バッテリーと一夜をともにしたこともあった。

  俺の記憶では、仕事人はバスケ、ムトは弓道をやっていたせいで、あんまり前半のほうは作業してないはず。その点欣爺は夏休み中もよく来ては、大富豪をやっていた(笑)。おかげで、俺の『ウォーリートランプ』は、すっかり柄が消えてしまった。

  女の子に本気で怒ったこともあった。なぜ怒ったかというと、ナベ(奴の作る竜は絶品)が作った竜が馬鹿にされたからだ。『漢が怒るのは自分の信念が馬鹿にされたとき』(遊び人108の名言より)。このときはものすごい剣幕で怒った。が、俺よりも芋兄の方が怒っていた。暴言吐きまくり。女の子は半泣き。俺は奴がこれ以上に怒ったとこを見たことが無い。

  そんなわけで、このメンバーで金賞取れないはずも無く、ぶっちぎりで、金賞ゲット

  行灯後しばらく仕事人は廃人になっていた。(本当に目がうつろでした(苦笑))


  ■二年時
  このときほど明暗が分かれたときは無かった。

  この年は、クラス替えによって、芋兄、ムト、欣爺が四組に。遊び人、仕事人が十組になったのである。お互いに戦うときが来たのである。

  結果を言うと、四組金賞十組賞無し。で四組の圧勝であった。だが、後に学年誌上でムトは『がんばってこれたのも十組のみなさんのおかげです』と書いている。どうして、このような発言が生まれたのか、見ていこう。

  まず、なんと言っても注目すべきは、そのメンバー構成である。四組の行灯制作の中心メンバーは(色塗りは除く)、責任者ムト、芋兄を中心に、欣爺、エンジョー、ジョン、ジローなど、三年時に大賞、金賞、銀賞獲得の立役者たちばかりである。対する我が十組の主要メンバーは、責任者遊び人と仕事人の二人である。実際、十組の行灯の針金の九割は遊び人と仕事人の両名によって作られていた。それでも全然スピード面も、技術面も負けてはいなかった。遊び人は一年時に針金に携わってなかったハンディを克服するため、ゴールデンウィークに一人黙々と針金の練習をしていたのだ。その甲斐あって、十組は仕事人が大まかに針金を張り、遊び人が格子を作っていくといったスタイルで完全分業制のもと作業を行い、遊び人の格子の美しさは当時話題になったものだ。中でも右足の爪の部分は多くの者の視線を釘付けにした。

  では、どうしてこんなに明暗が分かれたのであろうか?

  それは、四組は人を使うのがうまく、十組(俺)は特に下手だったと言うことである。四組の色塗りをみて、焦って自分のクラスの色塗りの女子たちをどなりに行ったことなど、その典型である。

  それでも、十組の行灯は二年の中では間違いなくトップ2には入っていた。では、なぜ銀賞すら取れなかったのか?答えは簡単電気がつかなかったのである。「電気がつかなかったぐらいで、賞に入れないってことあるの?」と思うかもしれないが、実際現行の審査制度では、電気がつかないと、色の透け具合などの点数が一切入らず、入賞を狙うのは無理である。

  そして、結果発表。金賞をとって喜ぶ四組のメンバーとは対照的に、遊び人と仕事人は火文字をみながら、仁王立ちで、人目を憚らず泣いた

  先に紹介した学年誌には金賞をとった四組の文章の下に、何故か賞にも入らなかった十組の遊び人の文章が並べて掲載されていたのである。この場を借りて、ヒデキTには心より、感謝申し上げたい。

  以下、その文章を、記憶を頼りに掲載する。



『一日遅れの行灯』 二年十組 行灯責任者。


  そのとき、何を思っていたのだろう…

  こみ上げてくる涙を抑えることもできず、ただただ泣いていたような気がする…

  「あの行灯光らせようよ」。誰かが言った。学校祭二日目が終わったあとのことだった。一度も完全に光ることのなかった行灯。その行灯が光った姿はどの行灯よりも美しく、寂しげであった。

  記録には残らないが、四十人の記憶にはいつまでも残るだろう…

 一日遅れの行灯。


  ■三年時
  この年は、クラス替えにより、ムト、芋兄、ナベが一組に。仕事人が三組に。遊び人、欣爺、ジョン、エンジョーが六組になった。

  この年、遊び人は行灯制作に携わるのを止めようかと思っていた。一組に勝てる気がしなかったのだ。「欣爺は行灯制作を任せてもいいぐらいに充分に育ったし、受験のため勉強しよう」と、自分を無理やり納得させていた。そんな俺を動かしたのは芋兄の言葉だった。「お前はなんだかんだ言って行灯を作らずにはいられない男だ」と。この言葉で、やる気になった。俺をやる気にさせてしまったことを後悔させてやろうと思った。『なにがなんでも大賞』だった。

  そのため、多くの人を傷つけすぎた。『俺は行灯の負の部分を引き受けて、汚れ役に徹しよう。きれいな部分は欣爺にやってもらおう。欣爺は行灯職人としても充分にそだったし、みんなに好かれるだろうから、大丈夫』と自分を正当化し、多くの人を傷つけすぎた。もう少しで、今こうして語り合える仲間たちをも失ってしまうところだった。

  その最たるものが芋兄と生涯最初で最後(?)の大喧嘩をしたことだった。

  進路のしおりにもかいたが、我が行灯制作におけるモットーは『ルールを破って賞をとってうれしいか!?』である。そんななか、ムトが作業時間外に作業をしてたという情報が耳に入る。心の中で、一組には勝てないと思ってた俺は、玉ちゃんに食ってかかった。『時間外作業は減点じゃねぇーのか?なんで減点しねーのよ!!減点できねぇんだったらそんなルールなくしちまえよ!!正直者が馬鹿をみてんだぞ!!』と暴言を吐きまくった。そう、俺は減点でもいいから、勝ちたかったし、そうじゃないと勝てないことも知っていた。そこにやってきた芋兄に『俺は絶対に認めないからな!!!』と暴言を吐く。実際、賞に入ったクラスで夜間作業を行って、先生に見つかりながらも、後日呼ばれた際にシラを切りとおし、減点を免れたクラスもあるようだが、俺は今でもそんな行灯は認めない。

  次の日は、非常に気まずかった。だが、その次の日は普通に一緒にいたし、俺の婆さんの家で、一夜をともに過ごしたりもした。このとき俺がどんなにほっとしていたか、奴は知らない。

  まぁ、このとき奴がどう思っていたのかは、卒業式の夜に聞いたし。

  で、結局大賞は一組がとって、我が六組は金賞だった。それでも大満足だった。奴との戦いの後、『なにがなんでも大賞』という気持ちは薄れていたようだ。奴らが大賞を取り、素直に抱き合うことができて本当に良かった。だがあんな名シーンを写真におさめてないとは写真屋は何をやってんだか

最後に。これはあくまで遊び人個人の意見ですから抗議等しないように(笑)